バケモノになれず、人間にもなれず、憐れでかわいい私の……
昨日、実家からこっちに戻ってきて、
その帰りに、レイトショーでバケモノの子を見ました。
以下ネタバレ含みます。
私は、白鯨も中島敦の悟浄の話も知らんでしたが、
諸国行脚のシーンは、役ごちゃ混ぜの三蔵法師一向のように見えました。
あと、白鯨の引っ張りかた(ヒロインにその意味を語らせるあたり)的に 、あ、これはモチーフなんだな、とも察せられました。
ここへんをすごくわかりやすくまとめてくださっている方の記事を見つけました。
『バケモノの子』の正体 :映画のブログ
あとは、謎だったチコの存在を説明してくれている記事
チコはミーム!なるほど!
バケモノの子 感想 チコというキャラは「実在」しない件 - 人生つんだら詰将棋
そして、"いいこ"であること、という視点からの下記の考察も。
あれは、はざまを、社会のはざまを生きる子どもたちへの
「人生はそれでも生きるに値する」
「君の人生は君のものだ」
というメッセージなのではないでしょうか。
主人公の九太は、親が離婚して母方につき、その母親も事故で死んで遺児になる
九太の鏡像である一郎彦は、捨て子で産みの親を知らない。
一番身近なセーフティーネットが機能不全に陥った子どもたち、それが彼らです。
彼らが、そのまま社会のセーフティーネットで生かされたらどうなっていたか、(大検の話や対応をする役所の人間の描写など)
ということを描けば、それは人間界ではドキュメンタリー、さながらクローズアップ現代ででも特集されそうな社会問題として扱われるところを、
細田氏は、アニメーションによってフィクションの物語に仕立てた。
これは、アニメーションのもつ可能性の提示という力を示す王道作品だと思います。
親子がみれば、ビィルデュングスロマン、親子の絆を存分に堪能できる良い作品です。
とはいえ、アイデンティティ形成という面からみれば、
救われないのは一郎彦で、それがどうしても気になったのでこれを書いた次第。
九太には、それでも選択肢がありました。バケモノの世界で人間の子として生きること、人間の世界でなかったことにして人間として生きること、そして人間の世界でバケモノの子として生きること。
一方で、一郎彦は生まれこそ人間界ですが、物を覚え始めたころからバケモノ界で育ちます
彼にはバケモノ界で生きる選択肢しかありません
(九太が読めない「鯨」を読めた、というのが回収されなかった伏線ならば、話は別ですが)
彼の育ての親は、このバケモノの世界で一郎彦を生きていかせるために、バケモノとして育てます。
いわゆる同化の路線をとったわけです。
はじめこそ同化でしたが、後に彼はアイデンティティのゆらぎに苦しむことになります。
同化→不適応→葛藤→逸脱という流れでしょうか。
九太は、9才からバケモノ界にいるので、すでに自分は人間であるというアイデンティティのもと、バケモノ界で生きることを余儀なくされます。
所謂、葛藤→適応→統合の路線です。
この適応戦略の違いが、後の二人のアイデンティティのゆらぎと持てる選択肢の違いとして響いてくるんですね。
結果として、九太は、人間界で父を見つけ、バケモノ界でも熊徹という育ての親をもち、ハイブリッドなアイデンティティを獲得します。
そして、ハイブリッドなアイデンティティ構築に至る途中で逸脱してしまった一郎彦を倒すのは、九太です。
もちろん、九太も「俺はバケモノなのかな」と葛藤していますが、それは彼が比較の視点を獲得しているから。
かたや一郎彦は、ひとつの世界の視点から適応/不適応に葛藤し、
その結果バケモノの父の姿に憧れとして固執し、人間である自分を隠し、忌み嫌い、同族であるはずの九太にも「ニンゲンのくせに」と敵対心をむき出しにします。
アイデンティティクライシスです。
子どもに子どもを、お前は俺だから、俺はお前だったかもしれないから、といって、モデルケースに失敗ケースを、同族殺しをさせるわけです。
この悲哀をもう少し丁寧説明して欲しかったという意味で、一郎彦の救いをもう少し見たかった。
最後に、家族に看護されるなかで、被り物を取った状態で目を醒ます一郎彦のシーンが、「父上、母上、二郎彦」と呟くシーンが、これからの家族の関係性の再構築を伺わせる唯一の救いでしょうか。
しかし、この呟きで"ああ、それでもこの子はここでしか生きられないんだ"ということを見せつけられます。
九太が父親に「つらいって決めつけんな」的なことを言うシーンがありますが、
あれは、はざまを生きる子どもたちの最大のレジスタンスだったのではないでしょうか。
はざまである、中途半端であるということは、ネガティブな意味だけじゃない、それは発展途上ということでもある。
ふたつの世界のはざまにいるということは、そこでの葛藤も含めて、ハイブリディティを獲得する途上にもあるということです。
そして、その過程は、葛藤も含めて、その可塑的な状態は誰のものでもない、君のものだ。
可哀想かどうかは君が決めろ、細田氏はそう言っているような気がしました。
そして、はざまを生きる九太は、上記の台詞によって「俺が決める」と宣言する。
とはいえ、何よりもこの作品では子どもがそうなるためのメンターの存在の重要性も強調されてるんですが。
「おまえもひとりぼっちなのか」
「俺もひとりぼっちだよ」
「あいつもひとりぼっちなんだ」
思ったよりも人が育つにはたくさんの人が関わっている
一郎彦は、まだ宣言できないけれど、それがこの作品では完結していないけれど、彼はこれからその過程を辿っていくのでしょう。
子どもには可塑性がありますから。
ところで、大人になった九太のシーン、ところどころもののけ姫のアシタカっぽいと思いました。