とぶこは育つ

脱力絶望系女子の備忘録です

自分のために泣くということ 逢沢りく と バケモノの子、楓の共通点と相違点

たまたま、某フリマサイトで出品されてた本をみて

逢沢りく 上逢沢りく 下


はて、どこかで…

と思ってたら、そうだ、これ猫村さんの人だと思い立ち、またしてもKindleで検索&ぽちっと衝動買い。ぽちっとな。

きょうの猫村さん 1


…まじで今月もうやめよう衝動買い。
月の請求見たくない。逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ。

主人公の逢沢りくは、才色兼備な都会っ子
父はおしゃれなアパレル?業。
母も同業同社だったけど、今は専業主婦。

よくある都会の核家族
そして、よくあるちょっと歪んだ感じが、りくの目を通して描かれる。

よくある、

"子どものために"自己犠牲&こどもに自己投影

そのよくある歪さは、

ママってほんとめんどくさい

という、りくの言葉で表される。

りくは、普通の子。才色兼備だけど、それだけで、普通の子。
普通に親の求めることがわかって、普通に親の求めることをどうしたら自分で体現できるかわかってる。

そのインプットとアウトプットの精度がちょびっとだ高い、ただそれだけの子ども。

で、その方法の十八番が、泣くということ。

いやー齢14,5にして女の武器といわれるものを自在に操るとは、

逢沢りく、恐ろしい子!

で、あらすじはめんどいんではぶくんですけど(笑)

結局、彼女が

人のために泣く→泣けない→自分のために泣く→人のために泣く

ってルートを辿る物語なんですけど、

って、おい、ループしてるがな!って感じですよね。

初期の人のために泣く、と最後の人のために泣くって展開としては同じなんですが、

その中身がちょっちだけ変化します。

逢沢りくでは、本中では台詞は多いけど、説明は大分少ない。

で、これ読んでてふと思い当たったのが

バケモノの子の、楓。

バケモノの子 (角川文庫)バケモノの子 オフィシャルガイド



楓は逆に劇中では懇切丁寧にセルフでナラティヴってくれてましたね。

あ、眠いので続きはまた後で。







おいてけぼり?

前回の記事冒頭で、実家に帰省していたといいましたが、そこで思ったことについて


未だ投稿記事4つにしてすでに香ばしい臭いが漏れだしているとおり、私の育った家庭は、所謂機能不全チックな家庭でした。

でしたって過去形なのは、今はある意味一家離散なので、小康状態を保っているからです。

私は大学進学のため18で家を出て、今は実家から片道600キロ超えの場所にいます。

弟は県内ですが、実家からは通えない大学に進学したため
(そもそも実家が田舎すぎてどこでも下宿前提なんだが)

私と同様下宿です。

で、母は前回の帰省で発覚したことですが、
母の実家に帰ってそこから仕事場に通勤してました
末子も、高校進学と同時に母の実家から高校に通っています。

祖母は施設にいるので、今、実家には父だけが住んでいます。

週末は母がおかずを補充しに帰るし、父も母の実家にいって雑用したりするので交流が断絶してるわけじゃないんですけど。

まあ、ゆるい紐帯でつながってるかんじですかね。

母は祖母(今は施設にいる)や祖父(既に個人。当時は生きてた)の介護のためといっていたけれど
確かに傍目からみたらもっともな理由なんですが、

直感的に、"ああ、母はとうとう脱出したんだ"と思いました。

私がまだ家にいた頃、父は酒乱でDV野郎でした。
母は、仕事から帰ると、車のなかで仮眠をとり、父が一通り落ち着いてから、帰ってきました。

大体、10時とか11時とかです。

その間私は、風呂を汲み、夕飯をつくり、皿を洗い、弟たち一緒に、酒が過ぎて不発弾と化した父の存在を察知しつつ、気にしないようにただただ時間が過ぎるのを待っていました。

父が眠りにつくとほぅとして、一人でぼーっとしていました。集中力は全てそこにあてていましたから。
そんななか母が帰ってきます。
そんな日々でした。

時々運悪く母の帰宅と父の不発弾がかち合うとバトル・ロワイアルになりました。

時々っつーか、度々?

母もやり過ごせばいいものを、口で立ち向かおうとするので、そうすると、拳がとんできます。足も出ます。時々物も出てきます。あ、罵声はBGMです。

そうすると、小学校~中学校の頃は、私は弟たちと一時避難します。

女の私は本能的に50過ぎでもあの男には勝てないし、私より小さい声変わりもしていない弟たちでは戦力外です。

その頃の私には逃げることしか選択肢になかった。その逃げも距離的にはわずか10メートルもないんですが。

父は母の顔を殴っても、私の顔はなぐりませんでした。

私は、父からは罵声と足蹴りと、肩パンと、髪の毛を掴んで壁に叩きつけられたことくらいしかありません。
それでもアザにすらなりませんでした。ちょっと痛いだけ。

一方母は、バトル・ロワイアルの度にアザをつくりました。それでも、顔よりも下でしたけど。

一度、私が高校の時に、バトル・ロワイアルが熾烈を極め、母が顔に大きなアザをつくりました。
はじめは不自然な黄色から翌朝には、赤紫に、あれ、逆かな?に変化するそのアザをみて、

はじめて、"これは異常なんだ"と本当に思いました。

と、同時に"母はいつかこいつに殺される"と危機感を持ちました。脳内で言語化されない警告が点滅していました。目の先がチカチカしました。

一方で実の親にそんなことを自然と察知する私を離れたところから見ている私もいて、その私は、
"これはさすがに、止めないとやばいよ"、と冷静にアドバイスしてきました。

次に同じ状態になったとき(まあそれ前回から2日後なんですけど。)

私は、はじめて父親の前に出ていました。
弟たちにここから出るんじゃないよ、早くねちまいな、といってから。

父の前に出たときのことは正直よく覚えていません。多分興奮してアドレナリンどばーだったんでしょう。

ただひとつだけ覚えている感覚は、
"あ、こいつ意外と小さかったんだな"ということです。

小さい頃はあんなに怪獣に見えたのに、いざ目の前に飛び出てみたら、目の前には私とあまり身長の変わらない初老の男がいました。

力では勝てないので、私はやめろと怒鳴ってからただただ睨み付けました

どけ、と怒鳴られても無言で動きませんでした。

なんだその目は、と怒鳴られても

おまえもお母さんと一緒にぶんなぐってやろうかと怒鳴られても

生意気だと言われても、

睨み付けたまま動きませんでした。

何も言わない、手も出さない。けど従わない動かない。

父は、舌打ちすると寝室に帰っていきました。

父が帰った寝室から弟たちが出てきました。
おめーら寝ろっつっただろと思いました。

直ぐ下の弟が、なんで勝てないのに口出すんだと母に吐き捨てるように言いました。

末子は黙っていました。

私は最もだとおもいました。
私はいつか殺されるよ、お母さんとだけ言いました。

母は、いいから寝なさいといいました。


その出来事以降、バトル・ロワイアルの時、すぐ下の弟は、父の前に出るようになりました。

弟は力でも負けませんでした。
弟は、力で対抗できるようになっていました。
私は、男子の第二次成長期ってすげーと思いました。

私の中の冷静な人が、今度は、
"逃げたら?"と冷静に言っていました。

その3年後、大学進学のためという名目で私は家を出ました。

今、父は年を取りました。年金生活に入りました。
もう怒鳴ることもないし、拳を振り上げる力も多分ありません。

母に文句をいいますが、怒鳴ることはありません。

帰省すると、母はよく笑うようになりました。週末に母の実家に通ってくる父のために麦酒とグラスを冷やしているそうです。

いいねーおとうさん、たまに帰ってくる娘や息子とお酒飲めて

母が食事の席でいいます。

すごく平和。
すごく普通。

なのに、私には帰省の度に違和感しかありません。

よかったね、のハッピーエンドなのに。
私はこういうのが欲しかったんですけど、確かに。

私だけ、きっと私だけ、逃げた18の頃から記憶が止まっています。今、もう24だけど。

私は何から逃げていたのか。なんにために逃げていたのか。逃げてよかったのか。

なんで皆、なかったことみたいに笑っているのか。
あれは本当は私の中の妄想だったんじゃないか。
もしかして、母は昔から笑っていたんじゃないか。麦酒もグラスも冷やしてたんじゃないか。
父は昔から年を取った非力な口の悪いだけの男だったんじゃないか。

あれはなんだったんだろうか。
実家でもてなされる度に、初老の男の口から"お前はおれの娘だ"と、それを母が笑顔で茶化す光景を見るたびに、

ここはパラレルワールドなんじゃないかと、
べったりとした居心地の悪さを覚える

っていう夢を見ました。










というオチだったらよかったなあ。

バケモノになれず、人間にもなれず、憐れでかわいい私の……

昨日、実家からこっちに戻ってきて、
その帰りに、レイトショーでバケモノの子を見ました。

以下ネタバレ含みます。

私は、白鯨も中島敦の悟浄の話も知らんでしたが、

諸国行脚のシーンは、役ごちゃ混ぜの三蔵法師一向のように見えました。

あと、白鯨の引っ張りかた(ヒロインにその意味を語らせるあたり)的に 、あ、これはモチーフなんだな、とも察せられました。

ここへんをすごくわかりやすくまとめてくださっている方の記事を見つけました。

『バケモノの子』の正体 :映画のブログ

あとは、謎だったチコの存在を説明してくれている記事
チコはミーム!なるほど!

バケモノの子 感想 チコというキャラは「実在」しない件 - 人生つんだら詰将棋

そして、"いいこ"であること、という視点からの下記の考察も。

http://kazenonatu.com/%E9%9D%9E%E6%97%A5%E5%B8%B8%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%99%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E7%89%A9%E8%AA%9E/bakemononoko/



あれは、はざまを、社会のはざまを生きる子どもたちへの
「人生はそれでも生きるに値する」
「君の人生は君のものだ」
というメッセージなのではないでしょうか。

主人公の九太は、親が離婚して母方につき、その母親も事故で死んで遺児になる

九太の鏡像である一郎彦は、捨て子で産みの親を知らない。

一番身近なセーフティーネットが機能不全に陥った子どもたち、それが彼らです。

彼らが、そのまま社会のセーフティーネットで生かされたらどうなっていたか、(大検の話や対応をする役所の人間の描写など)
ということを描けば、それは人間界ではドキュメンタリー、さながらクローズアップ現代ででも特集されそうな社会問題として扱われるところを、

細田氏は、アニメーションによってフィクションの物語に仕立てた。
これは、アニメーションのもつ可能性の提示という力を示す王道作品だと思います。

親子がみれば、ビィルデュングスロマン、親子の絆を存分に堪能できる良い作品です。


とはいえ、アイデンティティ形成という面からみれば、
救われないのは一郎彦で、それがどうしても気になったのでこれを書いた次第。

九太には、それでも選択肢がありました。バケモノの世界で人間の子として生きること、人間の世界でなかったことにして人間として生きること、そして人間の世界でバケモノの子として生きること。

一方で、一郎彦は生まれこそ人間界ですが、物を覚え始めたころからバケモノ界で育ちます
彼にはバケモノ界で生きる選択肢しかありません
(九太が読めない「鯨」を読めた、というのが回収されなかった伏線ならば、話は別ですが)

彼の育ての親は、このバケモノの世界で一郎彦を生きていかせるために、バケモノとして育てます。
いわゆる同化の路線をとったわけです。
はじめこそ同化でしたが、後に彼はアイデンティティのゆらぎに苦しむことになります。
同化→不適応→葛藤→逸脱という流れでしょうか。

九太は、9才からバケモノ界にいるので、すでに自分は人間であるというアイデンティティのもと、バケモノ界で生きることを余儀なくされます。
所謂、葛藤→適応→統合の路線です。

この適応戦略の違いが、後の二人のアイデンティティのゆらぎと持てる選択肢の違いとして響いてくるんですね。

結果として、九太は、人間界で父を見つけ、バケモノ界でも熊徹という育ての親をもち、ハイブリッドなアイデンティティを獲得します。



そして、ハイブリッドなアイデンティティ構築に至る途中で逸脱してしまった一郎彦を倒すのは、九太です。

もちろん、九太も「俺はバケモノなのかな」と葛藤していますが、それは彼が比較の視点を獲得しているから。
かたや一郎彦は、ひとつの世界の視点から適応/不適応に葛藤し、
その結果バケモノの父の姿に憧れとして固執し、人間である自分を隠し、忌み嫌い、同族であるはずの九太にも「ニンゲンのくせに」と敵対心をむき出しにします。
アイデンティティクライシスです。

子どもに子どもを、お前は俺だから、俺はお前だったかもしれないから、といって、モデルケースに失敗ケースを、同族殺しをさせるわけです。

この悲哀をもう少し丁寧説明して欲しかったという意味で、一郎彦の救いをもう少し見たかった。

最後に、家族に看護されるなかで、被り物を取った状態で目を醒ます一郎彦のシーンが、「父上、母上、二郎彦」と呟くシーンが、これからの家族の関係性の再構築を伺わせる唯一の救いでしょうか。

しかし、この呟きで"ああ、それでもこの子はここでしか生きられないんだ"ということを見せつけられます。

九太が父親に「つらいって決めつけんな」的なことを言うシーンがありますが、
あれは、はざまを生きる子どもたちの最大のレジスタンスだったのではないでしょうか。

はざまである、中途半端であるということは、ネガティブな意味だけじゃない、それは発展途上ということでもある。
ふたつの世界のはざまにいるということは、そこでの葛藤も含めて、ハイブリディティを獲得する途上にもあるということです。

そして、その過程は、葛藤も含めて、その可塑的な状態は誰のものでもない、君のものだ。
可哀想かどうかは君が決めろ、細田氏はそう言っているような気がしました。

そして、はざまを生きる九太は、上記の台詞によって「俺が決める」と宣言する。

とはいえ、何よりもこの作品では子どもがそうなるためのメンターの存在の重要性も強調されてるんですが。

「おまえもひとりぼっちなのか」
「俺もひとりぼっちだよ」
「あいつもひとりぼっちなんだ」

思ったよりも人が育つにはたくさんの人が関わっている

一郎彦は、まだ宣言できないけれど、それがこの作品では完結していないけれど、彼はこれからその過程を辿っていくのでしょう。
子どもには可塑性がありますから。

ところで、大人になった九太のシーン、ところどころもののけ姫のアシタカっぽいと思いました。

リスクを取れるということ

この間、今年の春に社会人になった後輩と電話ではなしtた
まあ、なんていうか、よくまとめサイトで見るような、ブラック会社社畜チェックにだだはまるような話だった。

一番心配したのが、明らかにじじばばへの無形サービス料を、商品の販売売り上げとして自然に変換されてる(頭のなかで)かのような話し方のレトリックをその子が自然としていたことにたいしてだった。

その子の口から営業法方法の話が出てきたときには違和感が勝った。
その子の強みを、その子の精神が耐えられないような使い方をすることでなりたたせる営業の方法だと感じた。
それでも彼女は、いい会社だ、いい人に囲まれたとしきりに言う。

本人がそういうならと思ってはじめは聞いていたけど、もしかしたこれはSOSなんじゃないかと、本人もラップでぐるぐる巻きにし過ぎて麻痺しかけた無意識の救難信号なんじゃないかと思えてきて終盤で一度背筋が凍った。

まあ、それはそれとして
一番なんだよそれは、と思ったのは、

その子の先生が、社会人になった彼女と話したときに、
"で、それってニセモノばっかなんでしょ?"
"じじばば上手いことまるめこんでんでしょ"
的なコメントをしたそうだ。

成分についてはまじでちゃんと入れてるのがウリでその分値段も張るらしいので
前半部分は偽だとして、おそらく後半は話を聞く限りグレー

無形サービスの占める営業への割合はおそらくくだいぶでかい。
とはいえてめーがそれいうのかよセンコーってはなし。

おそらく彼女は悩み、苦しむのを避けるために適応している

それにたいしてかける言葉は、アプローチ方法は色々あるけど、
センセー、それはたぶん間違ってるよ。まぁ、どれだけ正解があって、どれだけ不正解があるのかわからないけど、
そのアプローチなら、ほかの言葉のかけ方もある。とくに彼女のようなナイーブな状態に対しては尚更。

どんだけセンセーって呼ばれるまで努力してリスクをとってがつがつ生きてきた自負があっても、
その生気に当てられてしまうような、リスクをとることがかっこいいという価値観さえもつ機会さえ許されなかった者はいるんですよ。センセのまわりにはそういうのは淘汰されて見えなかったかもしれないですけどね。

そんな子らに正論浴びせてどうすんだよ。
それで、相手が言葉に詰まったら、それでリスクをとるようになったら、満足ですか?

そこまで考えてませんよね、おそらく。

相手を立ち上がれなくするような正論が正解の時もあると思いますよ。学会とか論文とか、学内政治とか、教授会とかね。知らんけど。

でも、元教え子が、わざわざGWに片道二時間かけて貴重な半日休みの日に元学び舎に、元所属研究室のドアをノックした意味をもう少しだけ違う角度から解釈してみることも出来たんじゃないかと。

センセーはセンセーが普段おっしゃるほど人間に絶望なんてしてないし、おそらく、センセーが絶望なさったとしたらそれは、同じアスピレーション、価値観の範囲内で起こったことですよ。

絶望なんて贅沢なことすら教わらなかった子どもたちが大人になって社会に出ていくことの悲哀をあなたはきっと知らない。
知っていたら、そんなくそ無邪気な言葉は出てこないはずだから。

まあ、それはそれとしてセンセーの教授としての色々はすごいと思いますよ。そこは別だよね。

内々定

先日、本社にて最終面接、その後3日後に内々定いただきました。

ほかに二つ面接のこってるけど、なんだかつかれたので
とりあえず、明日の最終面接は電話かメールで辞退しよう。

今日中に返信するメールはちゃんと返信しよう。

そして、今日は講義でプレゼン。
来週は、レポート提出。

何も残せなさそうな院生生活でしたが、私はたしかに幸せでした。

たつ鳥あとを濁さず。先生にも迷惑かけてるので
もう見捨てられていますが、できるだけのことをして論文をだそう。

大丈夫、誰も期待してないから。好きにやっていいんだよ。
小学校、中学校、高校の頃みたいに外れてもそこまで怒られないから、ここは。
まだあの頃の私はいるけれど、そろそろ諦めてあげないと。

肥大した自意識は慰めるのに時間がかかる。
できればもう少し早く諦めて、慰めてあげられればよかったけれど、それでも24歳の誕生日前に気づけてよかったよ。
大丈夫、四捨五入したら20歳だし(笑)

とりあえず、目的は達成できたし、自分に向かないことも分かったし、
他の進路としての就職先も内々定1つでたし、あとは、その達成度、質の問題だったんですね。

質の問題をついさっきまでゼロサムゲームと勘違いして学校のトイレで泣いてましたけど(笑)
ゼロサムじゃねぇな、コレ。ってわかったらちょっとなんだすっきりした。

私がほんのり苦手だけど尊敬もしているあの人は、それでもああいう人がアカデミックに残るんだろうな、という秀才君で、
私はなりたくてもあの人にはなれません。それはどうしようもありませんから。
私の主観で世界は回っているわけではありません。
修士は、時間との戦いですから、要領の良いことはいいことなのです。それが正義です。

そんな価値観の世界の片隅にたった2年間だけど、要領悪いにもかかわらず、ちょこんと置いてもらって私はやっぱり幸せでした。
私を指導してくれた先生も、ご飯おごってくれた先生も(笑)、人につなげてくれた先生も、「自信を持ちなさい!」と渇を入れてくれた学部の頃の先生も、
お金を出してくれた両親も、私が私立のせいで、国立になったのに文句言わなかった賢い弟くんも、
私が居座ることを赦してくれた私に関わる全ての人に、最終的には感謝しかありません。

さーて、修論書かな。